温故知新展

20世をふりかえる・100年100枚の写真展


  2001.8.1(水)〜11.25(日)

--- 中之条町歴史民俗博物館 ---



  〜 館長 唐澤定市氏挨拶より抜粋〜


企画展開催にあたって

 20世紀とは、1901(明治34)年から2000(平成12)年までをいいます。明治34年1月2日と3日の 報知新聞には、「20世紀の予言」が発表されていて、その中には「無線電話の進歩」、「写真電話」、 「鉄道の進歩による時間短縮」、「馬に代って自動車交通の普及」など物質文明の発達が予言されて いるほか、医学の進歩や蚊や蚤などの滅亡などもあげられています。20世紀はじめに、夢のように 考えていたことのいくつかは、この100年の間に実現していることは注目に値するところです。  激動の20世紀は、人類史上まれにみる飛躍をはたした世紀でありました。しかし一方では、大き な戦争や環境破壊など様々なマイナス面を生じさせました。21世紀を迎え、最初の企画展となる今 回は、「温故知新展」ということで、20世紀をふりかえることをメインテーマとして開催いたします。 今から100年前というと、中之条町では、群馬県で最初の農学校である郡立吾妻農学校(現中之条 高等学校)が開校しています。
 この企画展では、中之条町を中心に集められた100年間100枚の写真を展示するとともに、これ までに資料館に寄せられた戦時中の資料をはじめ様々な20世紀の資料を展示いたしました。町の 移り変わりや風俗・生活の変化などを通して、20世紀を回顧しつつ、新世紀の方向性を見出せる展 示会になれば幸いです。
 最後に、ご協力ご指導下さいました多くの方々に厚く御礼申しあげ、ご挨拶といたします。

また,関連事業として,トーマス永井絵画展を10月2日(火)〜8日(月)まで,開催します。

トーマス永井<1886−1966> トーマス永井(永井富三)は 1886(明治19)年、吾妻郡名久 田村大字横尾村(現、中之条町 大字横尾)に永井良平・かんの 三男として生まれました.永井 家は江戸時代には、横尾村の名 主を勤めた名家です.曽祖父永 井隆助(常山・1805−1859)は、 日本画を柿沼山岳(1774−1859) に学び、その子専蔵(文露)も 文人として才能を発揮するなど、 文芸の適にも明るい家風でした.  富三は、1904(明治37)年3 月に群馬県立農学校(現、中之 条高校)を卒業し、二年後、19 歳で本格的に絵を勉強するため、 アメリカに渡りました.1924 く大正13)年から1927(昭和2) 年までニューヨークの美術学校 (アートスチユーデンツ・リーグ) で学び、トーマス・ハート・ペントン (Thomas Hart Benton)に師事しました.当時、ニューヨークには、5,000人余りの画家 がいて、この道で生計を立てて行くことは決して、簡単なことではなかったといいます. そんな中、彼は、師の魔術的リアリズムの作風を忠実に消化、東洋・日本的なクツチを加 え、独特な作風を確立していきました。その後の活躍はめざましく、  柑29(昭和4)年、代表件rピクニック」をアンダーソン・ギャラリーズヘ出品. 1934く昭和9)年、インターナショナル・ウォーターカラー・ショーに出品. 1935く昭和10)年、ニューヨークのラ・サール・ギャラリーと口一リッチ美術館に出品.etc,  アメリカでは日系人画家として高い評価を得、1940(昭和15)年頃までは、作品も相当 売れ、順調な生活を送りました.ところが、1941(昭和16)年、日米開戦のため、作品の 貫い手が無くなるばかりか、敵国人として登録され、苦悩の日々を過ごすことになりまし た.  戦後の混乱も治まった昭和30年代に日本の親族に宛てた手紙には、ボーラ夫人とともに 元気に生活している様子が伝えられています.そして、1966(昭和41)年、フロリダで亡 くなります.その後、ボーラ夫人のもとに大切に保管されていた遺作、遺品百数十点が夫 人の逝去とともに人手にわたり、所在がわからなくなっていましたが、1994(平成6)年、 ボストンで発見されました. 1995(平成7)年、東京都庭園美術館で開催された「アメリカに生きた日系人画家たち」 の展覧会でトーマス永井の作品がはじめて日本に紹介され、翌1996(平成8)年には生誕 百十年を記念して本格的な回顧展「トーマス永井の不思議世界」が東京・第一生命南ギャラ リーで開催されました.1999(平成11)年、書三の母校中之条高等学校は、創立百周年妃 念事業として、作品6点を購入しております.


(注意)中之条に行ってんべえは,個人で運営されています。公的なものではありません。 produced by Kogure Hiroshi



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