企画展

武道免許状


  2000.10.3(火)〜11.26(日)

--- 中之条町歴史民俗博物館 ---



ごあいさつ
  館長 居澤 定市
 武道免許状は、長年にわたって武道に精進した門弟が、技術・人物共に優秀で流派の後継者として認められる場合に与えられました.伝授された秘法は、親子兄弟といえども絶対に洩らさないことを誓う起請文を差し出しております.
 本年8月、神奈川県寒川町の鹿野百合子様より、信州松代藩真田氏に仕えていた家臣、鹿野外守・同藤馬・同万之丞あての武道免許状18本を寄贈して頂きました.鹿野氏は、戦国時代に中之条の豪族狩野志摩守、同右馬介と同族で、沼田藩初代の藩主真田伊豆守信幸に仕えた武士と推察されます。狩野(鹿野)氏の菩提寺清見寺(中之条町)には、開山山の歴代住職の墓と並んで狩野氏の墓が残されております.
 今回の企画展では、戦国時代の狩野氏の活躍、沼田から松代へ移った真田氏に従った鹿野氏の歴史、同時代の上野における神陰流上泉信網、馬庭念流樋口定次をはじめとする剣術・気楽流柔術などの武道免許状を紹介し、武道の歴史についても考察したいと思います。
 このたびの企画展開催については、鹿野百合子様から家重代の武道免許状のご寄附を頂きましたことがきっかけとなりました。そして、気楽流宗家飯嶌文夫氏、馬庭念流樋口道場当主樋口松枝様、長野市松代町真田宝物館、吉井町郷土資料館にご指導、ご協力いただきましたことを厚く御礼申しあげ開会のあいさつといたします.


中之条町における狩野(鹿野)氏について
狩野(鹿野)氏は、伊豆国の豪族狩野介維景を祖とし、延徳の乱により、上野国へ移り住んだと伝えられる。戦国時代になり、吾妻地方の土豪として、吾妻城(中条城)を本拠としたが、武田信玄の上野国侵攻によって、真田氏に属した.天正16年(1588)、真田信幸(信之)は、後北条氏の侵攻に備え、吾妻地方の武士たち64名に、横尾八幡城(中之条町大字横尾)の警備を命じた『八幡山番帳(田村隆氏所蔵文書)の中には、4人の番頭の中に狩野志摩守(鑓)・狩野右馬助(弓)がおり、番士として狩野又左衛門(鉄抱)の名がみえる。
 狩野氏の中には、後に鹿野と改姓した者がいて、清見寺(中之条町)の開基大檀那にもなっている.
清見寺内の開山山に鹿野新左衛門、鹿野右馬之助、鹿野勘助等の墓碑6基が現存している.
『伊勢町覚割(木暮清一氏所蔵文書)によれば、一族の鹿野善太夫(沼田藩真田家臣)、その弟で帰農した伊兵衛等が中心となって、伊勢町町割(承応3年)が成されたことが記されている(伊兵衛の屋敷は寛文3年の「伊勢町町割図」(木暮清一氏所蔵文書)に記載されている)。
 鹿野氏は、中之条町の町割(寛永2年)でも中心的な役割を果たしたと推察されるが、沼田藩第5代藩主真田伊賀守桔信利(信澄・信直)の行った厳しい拡大検地政策に対して、異議申し立てを唱え、欠所(家財没収)の身の上となり、跡目は剣持姓を名乗り、今日に至っているという。
「狩野」の読みは、「かのう」・「かりの」・「かの」などがある。「鹿野」の読みは、「かのう」・「かの」・「しかの」などがある。中之条町で活躍した鹿野氏は、狩野(かのう)氏の一族であったことから、はじめ「かのう」と読まれていたと考えられる.

鹿野氏と武道免許状
武道免許状(鹿野百合子氏寄贈)の中にでてくる鹿野氏は、松代藩真田家臣で、沼田藩より藩主真田信政に従ってきた狩野(鹿野)勘左衛門の末裔である。
鹿野家系図によれば、 鹿野勘左衛門(第41代)・五左衛門(第42代)・只右衛門(第43代)・小左衛門(第44代)・外守(第46代)一万之丞(第46代)・外守是富(第47代)・三郎冶(第48代)・藤馬(第49代)・外守泰敬(第60代)・ 勇之進(第51代)・道二郎泰成(第52代)・克明(第53代)・第54代英雄氏まで続いている.
 鹿野外守(120石)の屋敷は、享保15年の「松代城下絵図」(菅沼高治氏所蔵文書)によれば、長国寺脇の上田町に出ていて、近年まで、第54代鹿野秀雄氏が所有していた敷地に一致している.
 松代藩第8代藩主真田幸貫(1791・1852)は、名君として名高く、文武学校という藩校をつくり、学問と武道を奨励しており、武道免許に出てくる鹿野氏の一族も、風雲急を告げる幕末に、真田家臣の一人として、剣術や柔術をはじめとする武道を熱心に学んだことが伺われる.
 明治時代になり、第51代鹿野勇之進は、海軍中将となり、後に男爵を授けられている.百合子氏の夫で、中之条町歴史民俗資料館開館以来、協力をしていただいてきた第54代の鹿野英雄氏は、平成10年8月、神奈川県襲狩野で永眠された(享年78歳).

沼田藩・松代薄真田家で活躍した鹿野・狩野氏
 『真田伊賀守家中附』(後藤縫之介氏所蔵文書)に出てくる鹿野・狩野氏を列記すると、鹿野甚五右衛門(吾妻郡岩井村・307石)・鹿野伝右衛門(吾妻郡横谷村・75石)・鹿野善太夫(御鑓奉行・150石)・鹿野数馬(御先手鉄砲頭・150石)・鹿野長右衛門(石井惣兵衛組・100石)・鹿野右衛門助(前島七右衛門組・金7両ニ3人扶持)・鹿野五左衛門(前島七右衛門組・金7両二弐人扶持)・狩野源内(馬方役人・金8両3人扶持)・鹿野源七(朝夕組廿壱人・金5両二弐人扶持)等が載っている.
 松代藩真田家にでてくる鹿野・狩野氏を列記すると、真田信之が松代入封後の『寛永十酉年商好娘捉』(菅沼高治氏所蔵文書)の中に狩野甚太郎(75石)が出ており、灯明暦三丁酉年御知行所御切米御扶持方覚』(菅沼高治氏所蔵文書)には、狩野冶助(130石)・狩野勘左衛門(130石)・狩野長四郎(100石)・狩野小左衛門(60石)等が出ており、これは、沼田蒲より松代薄2代目藩主となった真田信政に付き従った家臣と考えられる.その後、天和元年11月、沼田藩真田家改易こより、鹿野勘助(250石)が松代藩真田家につかえている. 
* 沼田薄真申氏は、真田信之(け信書(2)・熊之助(3)・信政(4)・信澄(6)…(改易) 
* 松城藩真田氏は、真田信之(1)信政(2)幸道(3)・信弘(4)・信安(5)幸弘(6)・幸専(7)・幸貫(8)・幸教(9)・幸民(10)・幸正(11)・幸治(12)・幸長(13)・幸俊(14)−(現当主)

武道免許状め成立と上虜信繍
 日本歴史の上で、武士団が成立したのは平安時代のことである.最初の武家政権として鎌倉幕府が開設された12世紀から、近代国家が形成される明治までの約700年間、武士の教養として培われたものが武術である。鎌倉時代の武士は、「弓馬の道」と称していたが、戦国時代になると独蘭・箇衛・鉄砲・兵法などが習得されるようになり、江戸時代初期に戦闘の実践に即した武術がそれぞれの種別に分かれ体系化された.それまでの武術に、水泳・岸路(抜刀)・新・半声(捕手)・柔術・棒術・事業絢・忍術なども新たに加わり絵描巌と称されている.こうした武道についての精進の到達点が印可状・免許状であり、こうした武道伝書の様式を完成したのが上泉信網である。
上泉武蔵守信綱(はじめ伊勢守秀綱)は、戦国時代に大胡領上泉の城主であった.「上泉系図」(上泉正俊氏所蔵)によると、藤原秀郷の子孫で、大胡氏を祖とし、鎌倉幕府御家人で法然上人に帰依した大胡成家の末裔となっている。戦国時代には、箕輪城主長野業政と同族の厩橋衆(長野藤九郎)に属していた(『関東幕注文卜上杉家文書)。信綱は、少年時代より、剣法を志し、念流を鎌倉寿福寺の僧念阿弥慈恩に、神道流を鹿島の塚原卜傳に、陰流を伊勢出身で下総香取の愛洲移行に学んで工夫し、新陰流を開いた。また、小笠原宮内大輔氏隆から兵学を学び、上泉流兵学を大成している。
 その頃の上野国の情勢は、永禄3年(1560)上杉謙信の上野出陣、それに対抗する西方から武田信玄の進出、そして、南方には小田原の北条氏康がいて、三方から強力な戦国大名が来攻していた.信網は、はじめ上杉方の箕輪城長野業政の下で武田信玄と戦ったが、同9年(1566)9月29日箕輪城落城の後は、上野を出て、兵法.武道の修行の旅をしている。その間、大和国柳生を訪れ柳生宗厳に武道の印可を与えている。奈良宝蔵院胤栄にも印可を許し、同10年2月肥後人吉の丸目蔵人佐に「殺人刀・活人剣」の印可を許している.このあと、同12年から元亀2年(1571)まで京都に滞在し、権大納言山科言継の屋敷を訪れたことが記されている.(仙科言継日記』)
 京都では将軍足利義昭をはじめ公家衆などに兵法の教授をしている.戦国時代までの武道は、剣術も含めて「兵法」と呼ばれている実践本位の武技であった。信綱の時代から近世初期までに、業(技偏・技法)と理(理論・心法)の両面の深化がはかられそれぞれ独立の武術に分化し、相伝大系が整備された(渡辺一郎「兵法伝書形成について一試論」日本思想体系61).
 上泉信網は、印可という形式で、武道免許状を与えており、この形式で、武道の中に理論と技法を伝えることを大成した.武道の流派は江戸時代、500以上あったといわれ剣術だけでも200以上とされている.上野国でも、上泉信網の新陰流をはじめ、直心陰流・神道一心流など多くの流派があった.なかでも馬庭念流は武士をはじめ農民層を含めて多くの門弟を集めており、荒木流・気楽流などと共に、江戸時代の姿を今日に伝えている武道として、武道史上、貴重な存在となっている.


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